西陣 興聖寺(織部寺) 秋の特別公開 紅葉 2023年 晩秋

 

 

昨年の秋は、西陣 興聖寺秋の特別公開に行きました。
こういった拝観寺院へ行くことは最近はほとんど無かったけど、久しぶりに。

以前からこのもみじの参道を外から見て紅葉がきれいな寺だとは知っていたのですが、
観光寺院でないため、数年前くらいから門を閉ざされてることが多かったように思います。
たまたま、自分が通る時がそうだったのかもしれませんが。

 

 

 

 

 

 

そういったことで、ここが紅葉がきれいなお寺で、
名は興聖寺というのは知っていたけど、
古田織部が建てたというのは知りませんでした。

それを知ったのは京都新聞に昨年連載されていた
新聞小説織部の妻」諸田玲子(著)。
京都新聞以外の地方新聞でも連載されていたかもしれません。

 

 

 

 

 

 

昨年の夏頃だったの思うのですが、その「織部の妻」の中で、
家を空けることが多かった古田織部(佐介)が、妻(仙)を迎えに来て、ここへ連れてきました。
仙は、留守が多い佐介はてっきり妾でもできたかと思ってたけど、
佐介は仙を驚かそうと密かに自分たちの菩提寺を建立していたのです。
開山には虚応円耳(きおうえんに)という僧を招いています。

連れ出された時、仙は「大徳寺へ向かってるのかな?」と書かれていたので、
大徳寺の近くで興聖寺といえば...あそこか、と、その時にここが「織部が建てた寺」だと知りました。

 

 

 

 

 

 

小説上では、興聖寺を建立した頃が茶人・古田織部の絶頂期です。
関ケ原合戦が終わって戦の無い世になり、
戦国武将の古田織部は好きな茶道に専念できるようになったのです。


そして秋頃になって興聖寺秋の特別公開されるというのを知りました。
ただ、最近は拝観寺院とかほとんど行かないので、特に
気にも留めていませんでした。

 

 

 

 

 

秋深まってきた頃になると、
織部の妻」では大阪の陣が始まって、それを境に古田家の運命が暗転します。

 

 

 

 

 

格天井の紅葉。

大阪の陣での古田家は、織部やその息子の多くは
徳川側として戦うのですが、戦後に織部は豊臣方と内通していた、
という噂が広まります。
そして織部やその息子、孫たちは徳川に切腹を申し付けられました。

切腹後、妻の仙は髪を尼削ぎし「青松院」と名乗ります。

 

 

 

 

織部の遺骸は大徳寺塔頭王林庵へ埋葬されました。
菩提寺として建立したが、罪人のためこちらに墓を建てることはできませんでした。

その切腹の回の翌々日くらいです。ここへ来たのは。
感情移入してしまって、この日が12月最後の休日だったから、「興聖寺へ行こう」と。
そういうことで訪れました。

 

 

 

 

 

あちらの建物は本堂です。
本堂内は写真撮影禁止。
四半敷きの土間で天井に鳴き龍という典型的な禅宗様本堂でした。
釈迦三尊が祀られています。


 

 

 

 

中庭。

コントラストきつくて見えにくいですけど、
下の部分がちょっと変わった蹲踞になってます。

 

 

 

 

 

 

こんな風。

「降り蹲踞」といって、古田織部作と伝わります。
地面を深く大きく掘り下げ、螺旋状の石段を降りた先に手水鉢を据えています。

 

 

 

 

 

 

織部の妻」の最終話では、
興聖寺織部(佐介)の墓を建てることを許されなかったので、
妻の仙は一本のカエデをお墓代わりに植えています。
この木はその子孫かも。


 

 

 

 

そして、仙は興聖寺の敷地内にささやかな庵を建てて移り住み、
ここを最後の棲家として佐介の菩提を弔うことにして話は終わっています。

 

西陣 興聖寺(織部寺) 秋の特別公開 紅葉 2023年 晩秋 (完)
それではまた。。。