前回の続きで修学院離宮です。
上御茶屋「隣雲亭」の前から。
上ってくると見えるこの池は「浴龍池」と呼ばれます。
島の形を泳ぐ龍の姿に見立てています。
谷川をせき止めて作ったこの人工池を中心に離宮は設計されました。
中央の島は「万松塢(ばんしょうう)」。
建物からだとこんな風です。
左の方を見ると京都市街が見渡せます。
遠くに見える細長い森のような所は御所ですね。
後水尾上皇はこちらでの遊興のあと、
あちらにあるお住まいの仙洞御所へ還幸されます。
上御茶屋のあと、下ってきて池の周りの苑路を歩きます。
中国風の橋は「千歳橋」。
江戸時代後期の1824年に京都所司代から献上されたものです。
こちらは池の中島に建つ「窮邃亭(きゅうすいてい)」。
蔀戸があって左側には御肘寄(おひじよせ)があります。
夕陽を眺めることができるそうです。
窮邃亭は文政年間(1818~1830年)に修復はあったものの
創建当時の建物で現存する唯一のものだと。
瓢箪型の引手。
三保ヶ島と呼ばれる出島。
土橋を渡って苑路をさらに進みます。
池の水が一部凍っています。
小さな舟がありますが、
このような小船でなく、かつては大きな楼船で舟遊びが行われていました。
その舟着場の跡も残っています。
ぐるっと回ってきて、
右から千歳橋、窮邃亭、土橋。
右奥の高い所が上御茶屋の隣雲亭。
後水尾上皇は修学院離宮造営(1655年~)に先立つ
1639年に岩倉幡枝に幡枝離宮を建てられています。
比叡山借景庭園で知られる現在の「圓通寺」です。
修学院離宮造営に伴い、幡枝離宮は近衛家に譲渡されました。
比叡山を借景にした圓通寺の庭園は、
一面の苔に紀州藩から送られた大小の海石が埋められた枯山水庭園です。
海に見立てたのでしょう。
岩倉幡枝は古代の古墳群がある小高い地で、水が流れていません。
水流を求めてこちら比叡山麓の修学院へ移られたとも考えられます。
比叡山を借景とする幡枝離宮のロケーションを見つけるのに
後水尾上皇は12年の歳月を要したとされます。
しかし、いざ出来上がってみるとやっぱり本物の水で舟遊びがしたいと思われたのでしょうか。
叡山の山裾を利用した地に広大な池を造り
舟を浮かべて観月の宴。
桜、山吹、ツツジ、紅葉など山々の木々とも一体化し
四季折々の風景も素晴らしかったと。
池の下に広がる田畑。
さらに後水尾上皇は農家の人の田植えや稲刈りなど耕作風景も
景観として取り入れて造営しています。
これだけ大きなスケールでも、建物は数寄屋風の小さな茶屋。
贅沢と質素の融合。この辺が他の国の王朝には無い、
日本唯一の奥ゆかしい文化というのでしょうか。
修学院離宮 雪 その2 2023年 冬 (完)
それではまた。。。