薄っすら雪積もる三十三間堂。
前回の智積院と同じ東山七条界隈を。
こちらは三十三間堂の東向いにある法住寺。
もとは、後白河上皇の御所「法住寺殿」です。
今は小さなお寺ですが、当時は広大な寺領です。
三十三間堂は後白河上皇が平清盛に命じて法住寺の中に建てさせた仏堂です。
法住寺殿は、木曽義仲の襲撃の際には焼失しています。
平家を都落ちさせた義仲は、そのあと後白河上皇が頼朝と手を結ぶんだことに怒り、
法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉しました。(法住寺合戦)。
正面の小さな門の右にあるのは梅の木です。
源平咲き分けで紅白の梅が咲きます。
表の楼門前の紅梅は早く咲きますが、
この源平咲き分けの梅は遅咲きで、
河津桜とか早咲きの桜が咲く頃に満開になります。
法住寺の隣りにある養源院。
紅葉時も来ましたが、淀君(茶々)、崇源院(江)ゆかりのお寺です。
勅使門。
少し北へ移動して、こちらは豊国神社。
豊臣秀吉を祀る神社です。
秀吉のお墓(豊国廟)はここではなくて、
少し東の豊国廟参道という坂道を登っていくとあります。
豊国神社は、秀吉が伏見城で亡くなった翌年の1599年に建立されます。
秀吉は死後「豊国大明神」の神号が宣下され神様となるのですが、
徳川家康により豊臣家が滅ぼされると、神号を奪われ神社も廃絶させられます。
その後、長い時を経て徳川の世が終わり、明治になってから再興されました。
明治天皇が「豊臣秀吉は、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣である」として。再び神様になりました。
本殿前の唐門は国宝指定。
もとは伏見城の城門だったと。 随所に桃山文化の豪華な彫刻が施されています。
彫刻は左甚五郎によるとの説もあります。
西本願寺・大徳寺・豊国神社の唐門は
「国宝三唐門(桃山三唐門)」と呼ばれています。
絵馬は秀吉の「馬印」である瓢箪(ひょうたん)。
馬印は、戦国武将が陣に旗のように立てているあれです。
秀吉は「千成瓢箪」といって、棒の先にたくさんの瓢箪が
ついているのを使ってました。
(戦に勝つ度にひとつずつ増やしていったともいわれてます)
唐門の向こうにある「拝殿」。
その向こうに塀で囲い、「本殿」があります。
豊国神社に隣接する「方広寺」。
方広寺は今ではこのお堂と鐘楼だけが残る小さなお寺ですが、
秀吉が建てた当時は巨大寺院でした。
現在の豊国神社、京都国立博物館、法住寺、そして三十三間堂をも
土塀を築き境内に取り込んでいます。
今も三十三間堂の南に「太閤塀」と呼ばれる築地塀が残っています。
そして極めつけは、奈良・東大寺を凌ぐ大きさの「大仏殿」がありました。
大仏の高さも、奈良の大仏さんは約15mですが、
京の大仏は19mあったとされます。
その「京の大仏さん」は焼失、落雷、地震倒壊と、そのたびに再建されますが、
現在は残っていません。
方広寺の鐘楼。
豊臣家滅亡を招いた「方広寺鐘銘事件」の梵鐘です。
この梵鐘の銘文にある「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、
「大阪の陣」の引き金になります。
「国家安康」は家康の名を分断、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願うと。
梵鐘は秀吉の子「秀頼」による鋳造されました。
銘文の起草は東福寺、南禅寺に住した禅僧長老「文英清韓」。
家康側で画策したのは、儒学者・林羅山と、金地院の崇伝です。
親豊臣の清韓と、親徳川の崇伝の対立も背景にありました。
「国家安康」「君臣豊楽」の文字は今も見ることができます。
分かりやすいように白く塗られています。
豊国神社とか方広寺とか 雪 2022年 冬 (完)
それではまた。。。